風のローレライ


第2楽章 風の濁流

5 スクランブル


へえ。この人が生徒指導の先生なんだ。驚いた。
わたしは笑いを噛み殺しながらその人を見た。
富田はわざとらしく咳払いなんかして、もっともらしく言った。
「吉野先生、私が見る限り、この子はきちんと話をすれば、わかってくれるタイプだと思う。何しろまだ、学校が始まってから日も浅いし、もう少し様子を見てからということにしませんか?」
「しかし、昨日の職員会議では……」
吉野先生は納得できないようだった。でも、富田は軽く手を上げて言った。
「大丈夫。私が責任を持ちましょう。なあ、桑原君、二人でよく話し合ってみようじゃないか」
「はい」
今は酔っぱらっていなかったけど、富田はおでこに汗をにじませて、首や耳まで赤くなっていた。
吉野先生は仕方なく部屋を出て行った。

あとには、わたしと富田だけが残された。
「謹慎処分は撤回する。それでいいだろう?」
そいつは、わたしに近づくと、ねこなで声で言った。
「取り引きってことですか?」
わたしは、はっきりと言ってやった。
「人聞きの悪いことを言うんじゃないよ。その方が君にとっても得策だろうと言ってるんだ」
どすを利かせた声で言う。
「わたし、まだ警察には言っていません。でも、あの女の人は言ったかも……」
「言ってないさ」
男はにやにやしながら言った。
「どうしてわかるんですか?」
でも、富田は、その質問には答えず、もう教室に戻っていいと言った。
「つまらないことを考えるんじゃないよ。昨夜君が見たことは、誰にも言わないように……。わかったね?」
そう念を押すと、わたしを部屋から追い出した。

わたしが教室に入って行くと、西崎が驚いたような顔をした。
やっぱり、あいつが何か絡んでる。そう思ったけど、始業のチャイムが鳴ったので黙って席に着いた。
早苗ちゃんが、ほっとしたような顔をして、わたしに微笑み掛けた。わたしも笑ってうなずいて見せる。

1時間目はホームルームに続いて、吉野先生の数学だった。
板書する先生の周囲に影がよどんでいるのが見えた。
何だろう? あれって闇の風?
薄いけど、ただの影にしては変な動き。
わたしは何度も目をこすって確かめようとした。
「桑原! 眠いのか? どうせ夜遅くまでゲームでもしていたんだろう? おっと、そんな物買ってもらえるはずないか。何しろ制服さえ用意できないほど、家計が逼迫しているようだからね」
くすくすと笑う声があちこちから聞こえた。
ひどい! わたしは吉野を睨みつけた。
「ん? 何か言いたそうだね。それじゃ、前に出て、黒板の問題を解いてみなさい」
チョークで黒板を叩いて言う。
わたしはのろのろと前に出て、黒板の前に立った。やっぱり吉野の周囲にあるのは闇の風だ。先生はそれに支配されている。浄化してやろうか。でも……。

「おや、肩に埃が付いてるぞ」
そう言うと、先生はわたしの肩を強く手で払った。
「なんだ、フケか? それともシラミかな? おい、いくら貧乏だからってお風呂には毎日入れよ」
教室内がどっと笑いに包まれた。先生も笑っている。ひどいよ! ちゃんとお風呂入ったのに……! どうしてあんたに、そんなこと言われなくちゃならないの? 悔しくて涙が出た。黒板の字が歪み、チョークを持つ手が震えた。
「ほら、どうした? 小学生だって解ける問題だぞ」
先生は厳しい顔をして言った。
「解けません」
わたしは言った。涙で文字が見えなかったからだ。

「学校をさぼってばかりだとこういうことになる。じゃ、岩見沢、君はどうかね? ここに来て、代わりに解いてみなさい」
ちがう! さぼってなんかいないよ! わたしはそう叫びたかった。
床を見ると、そこには吉野先生の影。
それがだんだん歪んでモンスターのように醜くなって行く。
早苗ちゃんがわたしの横に来てささやいた。
「キラちゃん……」
それは、ほとんど聞き取れないくらいの声だったけど、わたしを心配してくれているんだってわかる。大丈夫だよ。そう言ってやりたかったけど、吉野が見ているので黙っていた。
早苗ちゃんもすぐに答えを書き始めた。
「うむ。小学校レベルだから、欠席の多い岩見沢君でもさすがにこれはわかるか。はは。よし。二人共、席に戻って!」
窓辺でカーテンがゆれる度、光の中で影がゆれる。開け放たれた窓から風が自由に出て行った。
だけど、そいつの心に棲み着いているモンスターは消えはしない。

死んでしまえばいい!
わたしは思った。
体の弱い早苗ちゃんにまで、あんなこと言う吉野なんか……!
闇に喰われてしまえばいい! 本当に……!
わたしの中でも、どろどろとした闇が渦巻いていた。

午前中はずっとモヤモヤしていて、まったく授業の内容が頭に入らなかった。
お昼になると、みんなは気に入った子同士で机をくっつけて、弁当を食べ始めた。
吉野は教室に来なかった。
だから、みんな勝手なことをやってるんだ。

「キラちゃん」
教室から出て行こうとしたわたしを、早苗ちゃんが呼び止めた。
「お弁当、いっしょに食べよ?」
「ごめん。わたし……」
中学からは給食がなくなる。だけど、わたしにはそんな余裕なんかなかった。
「ふふん。きっと、お弁当持って来られなかったのよ。いやね。貧乏って……。みじめだわ」
西崎が言った。とたんに周囲の女の子達が笑う。
男の子達は聞こえない振りをして、黙々と自分の弁当を食べている。

「いいよ。わたしのサンドイッチ分けてあげる」
早苗ちゃんはそう言って、わたしの手を引っぱった。
「でも……」
「平気だよ。うちのお母さん、いつも食べ切れないくらいたくさん作るの。半分食べてくれると助かるよ。ぜんぶ食べちゃったって言って、お母さんを驚かせちゃうんだから……」
そう言うと早苗ちゃんは楽しそうに笑った。
「ありがとう。それじゃ、そうさせてもらうね」
わたしは、窓際の早苗ちゃんの席まで椅子を運んで、向かい側に座った。
「はい。これ、キラちゃんの分ね」
彼女はお弁当箱の蓋に、サンドイッチとおかずのウィンナーと卵焼きも乗せてくれた。
「ありがとう。でも、本当にいいの? こんなにたくさんもらっちゃって……」
「うん。わたしはあまり食べないから……」
そう言って笑う彼女の頬に光が当たる。

早苗ちゃんは、わたしの新しい髪型がとても似合うと言ってくれた。それから、今読んでいる本のことや、彼女が書いている秘密のノートのことも話してくれた。
そのノートには、自分の思いや詩を書いているのだと彼女は言った。
「へえ。すごいね。早苗ちゃんは詩人になるの? ハイネみたいな……」
「えーっ? ぜんぜんだめだよ、わたしなんか……。ただ、思ったことを適当に書いてるだけなんだもん」
早苗ちゃんはそう言ったけど、わたしはそうは思わなかった。彼女だったら、きっとすごい詩人になれると思う。だって、小さい時からたくさん本を読んでるし、頭だっていいもん。
それに、彼女の周りには、いい風が吹いてる。

流れる風の中は闇ばかりじゃない。
どこか懐かしい感じや幸せな気持ちにさせてくれる風もある。
わたしがまだ、うんと小さかった時、一度だけやさしく抱っこしてくれた人がいた。
それが誰だったのかはもう思い出せないのだけど、その時感じたやさしい思い。春のようにあたたかな風……。
早苗ちゃんは、そんな風に包まれている。
荒んだ教室の中で、そこだけに吹く春の風。そんな気がするんだ。
「なれるよ。きっと!」
わたしはそう言って励ました。
「ねえ、そのノート、いつかわたしにも見せてくれる?」
「うん。いいよ。少し恥ずかしいけど、キラちゃんになら……」

放課後。マー坊の家の前を通り過ぎようとした時、玄関から白衣を着たお医者さんが出て来て車に乗った。マー坊も出て来て、それを見送っている。
「あの……」
わたしは、恐る恐るそんな彼に声を掛けた。
「ばあちゃんの具合が悪いんだ」
彼がぼそりと言った。
「昨夜、ひどい雨だったろ? おまえのこと心配して遅くまで探してたんだ」
それを聞いて、わたしはショックだった。
「それで、具合が悪くなったの? わたしのせいなの?」
わたしは、触れていたスカートの襞を強く握った。
「別におまえのせいじゃないよ。ばあちゃんはもともと肺の調子がよくなかったんだ。なのに、長い間雨の中を歩き回ったからだろうって医者が……」
それは、やっぱりわたしのせいなんだと思った。
「ごめんね」
わたしは言った。それしか言えなかった。
「だから、おまえのせいじゃないって……。おれが悪かったんだよ。最初、ばあちゃんはおれに探して来いって言ったんだ。でも、そんなの放っておけばいいって言っちまって……。そしたら、ばあちゃんは、そんなら自分が探しに行くって……。おれ、知ってたんだ。裕也から聞いて……。おまえが親から虐待されてるって……。それなのに……」
マー坊がどうしてそんなに謝るのか、わたしにはよくわからなかった。

――あの子、いつまで家に置くつもりなんだよ?

わたしは、首を横に振った。
「マー坊は悪くないよ。おばあさんは大丈夫?」
「ああ。今はまだ眠ってるけどな」
わたしは部屋に上がらせてもらい、おばあさんの寝顔を見た。
こうして眠っていると、肌にも艶があって若く見えた。
おばあさんが呼吸をする度、胸が微かに上下している。
マー坊が泊まって行ってもいいと言ってくれた。でも、今日は他に約束があるからと言って別れた。

わたしは、メッシュのマンションに向かった。
あそこに行くのは闇の風のこともあって不安だったけど、服を返してもらわなきゃ……。

玄関チャイムを鳴らすと、メッシュがドアを開けてくれた。
「入れよ。服、乾いてるから……」
わたしは、そこに闇の風がないかと周囲を見た。
特に変わったところはない。
ゴムの木も掛けられた絵も昨日と同じ。
「ああ。それ、親父が描いたんだよ」
絵を見ていると、彼が言った。
「親父は絵描きなんだ」
「それで、お父さんは……?」
「めったに来ないよ。ずっと箱根のアトリエにこもってる」
わたしは、それを聞いてほっとした。
アトリエにいるってことは生きてるんだ。
じゃあ、あれはいったい何だったんだろ?

――どうしよう? お父さんが……

たぶん、それはわたしの空耳だ。でなければ、きっとメッシュ達が来る前に、この部屋に住んでた人達の会話とか……。

誰もいないリビングルーム。
「ここで待ってろよ。今、持って来るから……」
メッシュが行ってしまうと、何となく部屋の空気が急によそよそしくなった。
クリア過ぎて冷たい感じ。
やっぱり、ここはよその家。わたしの居る場所じゃないんだ。
でも、どうしてだろ? マー坊の家に上がった時は、そんな感じしなかったのに……。
「ほら、服。それと、お札も乾いたから……」
「ありがと」
わたしは、それらを受け取ると鞄に入れた。

「あのさ、訊いてもいいか? その金……」
彼は遠慮がちに言った。
「えーと、これは、ジャージと運動靴なんかを買おうとしてて……」
とっさにそう言った。
「ああ、それならいいけど……」
彼はまだ、何か訊きたそうだったけど、それには触れず、別の言葉を口にした。
「服、着替えるんなら、おれは部屋に行ってるよ。それとも、何か飲みたいなら冷蔵庫にあるし……」
どこかぎこちない会話。やっぱり疑われていたのかな?
「いらないよ。わたし、そろそろ、ジャージ買いに行かなきゃ……」
そう言って席を立った。

「じゃあ、あとで寄れよ。姉貴達も帰ってると思うから……」
「わかった」
そう言って玄関に向かった。
そこに掛けられた絵が、じっとわたしを見つめている。
草原に咲く花と遠い山々。
画面の隅に置かれた麦わら帽子と……人間の骨!
思わず、ぞっとして振り向く。
そこに立つメッシュの目元が暗い。
「ねえ、あんた達はいつから、このマンションに住んでるの?」
「ここができた時だから、もう3年になるかな? でも、なんで?」
「ごめん。何でもないの。気にしないで……」
わたしは急いで玄関を出るとエレベーターに乗った。
じゃあ、あれはきっとこの土地にまつわる風なんだ。
そうだよ。たぶん何十年も前の誰かの記憶……。
それは怨念だろうか?
そんなもの、わたしにはとても払えないよ。
わたしはただ、闇の風を見、その力を使う。
それだけの者なんだもん。

わたしは、なるべく早くそこから離れようと道を走った。
「アキラ、そんなに急いでどこへ行くんだ?」
うしろから来たバイクが、わたしを追い抜いて止まった。
「平河!」
あいつの顔を見て、わたしはなぜかほっとした。
「ジャージ買いに行くんだよ。水島スポーツ店まで……」
「水島? 遠いな。そんなら乗っけてってやるよ」
「あ、うん。ありがと。助かるよ」
わたしは早速、バイクのうしろにまたがった。

平河の背中……。久し振りって感じ。
エンジンを吹かして走り出すと、見慣れた景色がビュンビュン飛んで、頬に当たる風が気持ちよかった。
風の中にもいろんな風がある。
わたしは、バイクに乗った時に感じる風が一番好きだ。
もちろん、早苗ちゃんといる時のやさしい風も大好き!
でも、今は……。
いやなことなんかみんな忘れさせてくれるこの風が……。

2丁目の交差点。
供えられた花は少し枯れ掛けていた。
そこにはまだ、よどんだ闇の風が取り巻いている。
でも、それは薄い霧みたいな奴。無視しても大丈夫。
それでも、わたしはそこを通り過ぎる時、平河の腰のベルトを強く掴んだ。

その直後だった。
「桑原!」
向かい側から走って来た自転車の男が叫んだ。
「知り合いか?」
平河が訊いた。
「うん。担任の吉野先生」
何でそんなところにいたのか知らないけど、先生はUターンして、わたし達を追い掛けて来た。
それを見て、平河がバイクを止めた。
「すぐに、そのバイクから降りなさい!」
息を切らして追って来た吉野が真っ赤な顔をして叫ぶ。
「中学生の女の子が、そんないかがわしい不良のバイクに乗るなんて……!」

「この人は不良じゃありません!」
わたしも大声で叫んだ。
「バイクに乗っているような奴は不良に決まっているだろう! 落ちこぼれの屑が……! 君はどこの学校だ? 名前は?」
平河に向かって言う。
「宮坂高校2年の平河です」
彼は堂々と名乗った。
「宮坂だって? ほう。そうか。優秀な高校に無理して入ったのはいいが、勉強に付いて行けなくて不良になったって訳か。中学生の女の子をだまして、どこへ連れ込む気だ?」
吉野はいやらしい目で彼を見た。
「おれはただ、この子がジャージを買いたいと言うので、店まで送ってやろうとしていただけです」
「そんな見え透いた嘘が通用するとでも思っているのか? 欲求不満の高校生が……! はっきり言ったらどうだ? いたずらしようと思ったって……」
吉野がわめく。

「先生! やめてください! 彼が言ってることは本当です」
わたしは懸命にそう言った。
でも、吉野はぜんぜん信じてくれなかった。
それどころか平河の腕を強引に掴んでねちねちと言った。
「さあ、来い! 警察に突き出してやる! 当然、学校や親にも通報するからな。はは。そうすれば、おまえは退学間違いなしだ。人生の落伍者って訳さ」
「先生!」
わたしは、必死にその手を引き剥がそうとした。
でも、吉野はそんなわたしを突き飛ばして怒鳴った。
「桑原! おまえも停学だな! 富田先生はあんなこと言っていたが、昨日今日だけでこれだけの失態だ。ただで済ませようなんて虫が良過ぎるというもんだ! 覚悟しておけよ!」
もう、がまんの限界だった。
わたしは吉野に向かって風を放った。
憎い! 平河の腕を掴んでいるその手が、どうしても許せなかった。
そいつは吹っ飛ばされ、自転車に当たって仰向けに転んだ。

「な、何をする? 暴力だ! 教師に向かって暴力を……!」
「行っちまえ!」
わたしは叫んだ。体中の毛が逆立ち、血管が暴れ狂っているような気がした。
「おまえなんか、今すぐここから……。わたし達の前から消えてしまえ!」
さらに2度、3度、自転車ごと飛ばし、道に叩きつけた。
「教師だからっていばったような口を利くな! 何も知らないくせに……! あんたなんか何も知らないんだ! 本当のことなんて何も……」
吉野は呆然として、わたしを見ていた。
「そっちの奴、平河とか言ったな。覚えてろ! 絶対に学校に問い合わせてやるからな!」
吉野は、わたしではなく、平河の方に矛先を向けた。汚い奴!
「どうぞ、ご自由に! おれは清廉潔白です。訊かれて困るようなことは何もしていません」
平河が言うと、吉野はペッと唾を吐き捨てて、自転車を起こすと、それにまたがり、交差点の方へと走り出した。
その背に風がべったりと貼り付いていた。
おごりと憎悪の黒い闇の風が……。
吉野がペダルをこぐ度に、闇は強化され、増幅して行った。
あのままでは、きっと闇に呑まれてしまうだろう。
でも、かまうもんか! 第一、あんな根の深い闇、わたしにだって払い切れるかどうかなんてわからない。

「キラちゃん……」
平河が心配そうに訊いた。
「もう、いいよ。バイクを出して!」
わたしは命じた。彼は黙ってうなずくとエンジンを吹かした。その時。

背後で凄まじい音が響いた。
タイヤの軋み、金属がぶつかり、ガラスが砕けたような凄惨な音。
振り返るのが怖かった。
あれをやったのは恐らく……。
2丁目の交差点には花が置かれていた。
繰り返される事故。
塗り替えられる道路の闇。
吉野がどうなったのかなんて、わたしは知らない。
あれはもともと闇を抱えていた。
浄化してやれば……なんて、わたしは思わない。
でも、やっぱりそれは、わたしのせい?
闇の風が繰り返す過ちを止められたのは誰?
闇の風が見える者は……。
わたしだけだ。
でも……。

――当然、学校や親にも通報するからな。はは。そうすれば、おまえは退学間違いなしだ

あんな奴……!
風がぴたりと止んでいた。
バイクのエンジンが止まり、平河の足も路面に付いている。
「行って!」
わたしは、その背に顔を押しつけて言った。
「このまま闇を振り切って……」
わたしは、腰に回した腕に力を込めた。
彼はバイクを静かに発進させた。
夕焼けの最後の一欠片が、地平に沈んで行く。
血のように赤い一欠片が……。

平河は、黙ってバイクを走らせる。
ずっとこうしていたい……。
このまま、いつまでも着かなければいいのに……。

でも、すぐそこに看板が見えて来た。
平河は、店の前にバイクを停めた。
「着いたよ」
振り向かずに彼が言った。
でも、わたしは体が固まってしまったように、そこから動けずにいた。
「気にしてるのか?」
平河がバイクを降りる。
「あれは事故だ」
彼はヘルメットを外して籠に入れた。
それから、わたしの肩に手を置いて言う。
「おまえのせいじゃないさ」
「……うん」
そんなことはわかってる。でも……。
すぐ脇の道路を車が何台も通り過ぎた。
遠くでサイレンが鳴ってる。あの交差点に向かっているのかな?
「ジャージ、買わないとなんだろ?」
「うん」
わたしは、そろりとバイクから降りた。
何だか足が地面に着いていないみたいにふわふわとした感じがした。

わたしは、ゆっくりと歩いて店に入った。平河もあとから付いて来た。
「あの、中学のジャージと体育館シューズが欲しいんですけど……。あと、外用の運動シューズも……」
「ああ。確か靴のサイズは22だったね?」
「はい」
店員さんは、わたしのことを覚えていてくれた。それで、すぐに品物を持って来てレジに並べた。
「それじゃ、ぜんぶで9900円ね」
わたしは、持っていた1万円札を出して、おつりの100円玉をもらった。
少しだけうしろめたい気もしたけど、これでやっと体育の授業にも出られる。
袋に入れてもらった品物を受け取っていると、平河がヘルメットを一つ持って来てレジに置いた。
「そんな大荷物じゃ大変だろ? 帰りも送るよ」
平河が言った。
「すぐ終わるから、外で待ってて」
「わかった」

わたしは自動ドアを出ると、彼のバイクの脇に立った。
籠に入ったままのヘルメット。まだ大して汚れてもいないのに……。
「知ってる? また、2丁目の交差点で事故があったらしいよ」
ふいに、歩道を通り掛かった自転車から声が聞こえた。
「ほんと、あそこは魔の交差点……」
通りすがりの声が歪む。
2台の自転車に乗った女の人達は、その交差点とは反対方向へと走って行った。

――また、2丁目の交差点で……

彼女は何か見たのかな?
もう、サイレンの音は聞こえなくなっちゃったけど……。
でも、何となく背中がぞわぞわする……。
吉野先生は死んじゃったのかな?
それとも、ケガをして病院に……?
どっちにしたって、わたしには関係がない。
そうだよ。わたしには、関係のないことなんだ!

「おまたせ」
自動ドアが開いて平河が出て来た。
彼は籠に置いたヘルメットをかぶり、わたしに乗れと合図した。
言われた通りにすると、彼は持って来た袋から新しいヘルメットを出して、わたしの頭にかぶせた。
「これ……」
「バイクに乗りたいんなら、ないと困るだろ?」
「でも……。これって高いんでしょ? わたし、お金持ってないし……」
「いいんだよ。おまえにケガなんてさせたくないし……。かぶらないと違反だから……」
「平河……」
「ほら、荷物貸せよ」
彼はわたしが持っていた袋を籠に入れると、エンジンを吹かした。

ヘルメット……。
少し重くて変な感じ。きっと慣れていないから……。

――おまえにケガなんてさせたくないし……

平河……。
ケガしてるのはあんたの方じゃない。まだ、湿布のにおいが纏わってる。
でも……。離れたくない。どうしてだろ? 
暗い空に小さな星がぽつぽつと光っていた。
そこにはもう、あの恐ろしい闇の風はなかった。
ただ、静かな夜があるだけで……。

「海が見たい……」
つぶやくように、わたしは言った。
返事はなかった。
でも、彼は黙って港に向けてハンドルを切った。
「いやなことがあったらさ、いつでも連絡くれよ」
潮風に吹かれながら、平河が言った。
「そしたらまた、バイクに乗っけてやるからさ。これ、おれのケータイの番号」
メモした紙を折ると、青いお守り袋に入れて、わたしにくれた。
「これってあんたのじゃないの?」
「他にもあるからいいんだ。一つおまえにやる。鞄に付けとけよ」
交通安全って書いてある。こんなの初めてだ。そうか。お守りって、誰かの大切な思いがこめられてるんだ。
これにはきっと平河の……。

わたしはそれを強く握った。
何か固い物に触れた。覗くと、そこには10円玉が3個、木のお札といっしょに入っていた。
「平河……」
「きっと電話しろよ」
「うん」
まぶたの裏が少し熱くなった。
わたしは、早速それを鞄に付けた。
ちりんと小さな鈴が鳴った。
これがあれば、闇の風にだって負けない気がした。